2007年07月11日

応神天皇

物語 応神天皇
田中 繁男
展転社 刊
発売日 1999-05
発送可能時期:通常3〜5週間以内に発送




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この記事は2007/7/11に作成しました。


応神天皇(おうじんてんのう)は仲哀天皇の第四子である。

 生母は神功皇后であり、母の胎内にあって新羅へと往還したが、帰国直後に生まれた(仲哀天皇9年。庚辰。西暦320年)。父の仲哀天皇の亡くなった年の冬に生ま れたわけである。

 神功皇后が、仲哀天皇のほかの三皇子を差しおいて、皇后所生の皇子 (応神天皇)を即位させたいと願うたのも、この皇子が胎内にあって、 神の加護のもと、新羅往還を果たしたということが大きな支えとなっていたかと思われる。

 それで神功皇后は摂政となり(辛巳。西暦321年)、皇子の成長を待っていたのであるが、皇子が11歳となったとき即位して応神天皇となった(摂政10年。庚寅。西暦330年)。しかし、応神天皇は年少なので、生母の神功皇后は摂政を続け、実質的に政務を執り行っていった。従って、神功皇后の摂政10年以降は、応神天皇朝と神功皇后摂政期とが《並存》して いたわけである。

 それを「日本書紀」では、巻第九に神功皇后紀を立て、巻第十に応神天皇紀を立てるので、明言はしていないが、あたかも神功皇后崩御後に応神天皇は即位した、という恰好に見えるようになった。

 それに神功皇后崩年は己丑であり、応神天皇の即位元年は庚寅であった。干支は己丑⇒庚寅と続くので、己丑に神功皇后崩御、翌年の庚寅に応神天皇即位は、干支の上で見る限り矛盾はなく、自然な形に見える。 これに気づいた「日本書紀」編纂者らは、歴史を少しでも長く見せたいと思うあまり、干支の序列性を利用しては、並列であったものを直列で あったかのように見えるように、巻を立てたのであろう。

 それで神功皇后摂政期の事績の多くは応神天皇朝と重なり、そのうちでも重要なものは、神功皇后の摂政49年(応神天皇40年。己巳。西暦369年)に記す《百済の頼みで新羅を撃つ》ということである。百済との誼は王仁博士の来朝(応神天皇16年。摂政25年。乙巳。西暦345年)に象徴されるが、その危機を救い、それに百済が感謝して七支刀を作った翌年(41年。摂政50年。庚午。西暦370年)応神天皇は崩御した。

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